ホーム 【報告】5月28日 上智大学短期大学部ソフィア会総会、卒業生のためのホームカミング及び羽場勝子先生の記念講演会
2017年5月28日(日)上智大学四谷キャンパスでのオール・ソフィアンズ・フェスティバル(ASF)にて開催しましたイベントを報告いたします。
ハイメ・フェルナンデス・カスタニエダ元学長追悼集会
カスタニエダ先生は上智短期大学に1975年着任。英語科特別契約教授を経て、1998年~2003年に第3代上智短期大学長を務められました。
追悼集会では、短期大学部のために尽くしてくださった先生に感謝申し上げ、お世話になりました先生への想いを皆さんで分かち合い、追悼しました。お祈りは短期大学部のトマス神父様にお願いいたしました。
上智大学短期大学部ソフィア会総会
追悼集会後、短期大学部ソフィア会の定期総会を開催いたしました。
上智大学短期大学部山本浩学長からの祝辞をいただきました。
2016年度活動報告、会計報告、監査報告が承認されました。2017年度より会長交代、同窓会費値上げの方針も承認されました。
上智大学SJCD編入生ソフィア会設立総会
創立43年となった上智大学短期大学部から上智大学への編入者は年々増加して、現在600人を超える人数となりました。編入の制度は変わってきて最初の頃は英語・英文科を中心に数人だったのが、最近では学生の半数近くが編入希望で、いろいろな学部学科に進学しています。短期大学の学生への試験に至る過程についてのアドバイスはもちろん、編入後の大学生活でのフォローや情報収集へのサポート、さらに同じ体験を通した同窓生としての親睦と交流を深め、秦野と四谷、両方に関わったメリットを活かしていくのが活動の趣旨です。上智大学と上智大学ソフィア会はこの会の設立と今後の活動に大変協力的で期待されているところです。永らく編入指導に携わっていただいた羽場先生もこの会の設立に大変喜ばれて記念公演をお引き受けくださいました。これからも短期大学部ソフィア会と連携しながら活動していきます。
羽場勝子名誉教授記念講演会「上智短期大学の40年を振り返って」
上智大学SJCD編入生ソフィア会設立を記念しまして、「羽場勝子名誉教授記念講演会」を企画し、羽場先生に講演をお願いいたしました。
テーマ:上智短期大学40年を振り返って
今日は、カスタ二エダ元学長様の追悼式がメインですので、まず、カス二エダ学長様の思い出からお話をさせてください。神父様には個人的にも大変お世話になりました。(以下神父様と書かせていただきます。)
ハイメ・カスタニエダ神父様に感謝
神父様とは初めて1960年代にお会いしました。神父様が日本にいらして5年目くらいの神学生時代でした。その頃の私たちの修道院には、皆様が良くご存知のスペイン人シスター、Sr.コルテス、Sr.ヒル、Sr.ロホなど、若いシスター方がいて、神学院がお休みの木曜日には、神父様や神学生がよく遊びにいらっしゃいました。いつもスペインの歌をギター伴奏でにぎやかに歌っていました。カスタ二エダ神父様も、その中のお一人でした。このグループは、後に上智大学の人間学研究室のメンバーになりました。聖マリア修道女会が上智短大の創設に関わることになった時、私たちは、大学での人間学の教授経験がありませんでしたので、神父さま方に教えて頂きました。
上智短大創設の際、私はまだ大学院にオーバードクターとして在籍していましたので、教授会のメンバーになれず、神父様の助手になりました。3年目から非常勤講師にさせて頂きました。
神父さまは、いつもおおらかで、ご自分の研究を寛大に分かち合って下さいました。神父様は、上智社会福祉専門学校の校長にもならました。洋上大学やヨーロッパやフィリッピンの研修旅行を率先して引き受けられ、常に学生を海外の現実に目を開かせる様に努めておられました。上智短大の学生時代、研修旅行に参加し、その後、海外の支援活動に活躍している卒業生もいます。1980年に、神父様は私をフィリピン研修旅行に連れていって下さいました。私は、貧しい地方の現実を始めて体験しました。私たちが尋ねた町は、戦後35年経っているのに、戦時中のままでした。窓にはガラスがなく、ビニールが貼られていました。ある日、ミーティングの時に、一人のフィリッピン婦人が「あなたたちはなぜここに来たのですか?あなた方は、日本政府のスパイです!。旅行費用を日本政府が出していなければ、学生の身分でフィリッピンまで来れない。この旅行には、日本政府の陰の目的があるはずに違いない!」とすごい剣幕で詰め寄りました。学生たちは、誰も英語で返事ができませんでした。その時に神父様は、「彼らは、社会福祉を勉強している夜間学校の学生です。アジアの現実を勉強するため、皆自分で働いたお金でフィリピンまで来ています。スパイではありません。」と穏やかに説明して下さいました。私は余りのショックで、泣いてしまいました。今度は、「そこのシスター、なぜ泣くのですか?」と、私に問いました。自分が英語で返答できなかったつらさを味わいました。後に、私が上智短大の学生に、英語を話せるように促し、国際社会を知るプログラムに、積極的に参加するように勧めたのは、このつらかった体験が原点になっています。
スペイン内乱のとき、神父様はスペインのラ・コルニャに疎開をして、ご兄弟と一緒に聖マリア会の幼稚園に通っていたそうです。レストナック関係の同窓会が開かれると「私はマリア会の学校の卒業生ですよ。」と、喜んで参加してくださいました。ですから、上智短期大学の学長になられたとき、修道院のシスターズは、皆喜びました。
カスタニエダ神父様は、短大で使っていた『人間学』のテキストの編集責任者でもありました。学生は、テキストのなかにある「置かれた場所で実る」という言葉が大好きでしたが、神父様もこの言葉を実践して生きた方でした。大学で教える時も、短大で教える時も、そのあとの横浜の教会で主任司祭になられた時も、どこでも本当に喜んで働かれました。秦野での生活は、大変だったと思います。そのことを質問しますと、「秦野は良い所ですよ。夢庵のお料理もおいしいですよ。」とおっしゃいました。「置かれた場所で実る」という精神に生きたカスタニエダ神父様を、私たちは いつも尊敬していました。
私は、初代バリー学長、コリンズ学長、カスタニエダ学長、高祖学長、高野学長と5人の学長にお世話になりました。5人の学長方の思い出は尽きないですが、今日はカスタニエダ学長との思い出をお話しました。
退職
これからが、私に与えられたテーマの本論となりますが、昨年、このお話をお受けした時には簡単にお引き受けしてしまいました。しかし、準備を始めると、テーマが大きすぎてどう纏めていいのか、悩みました。まず、上智大学短期大学部になられた後のことを知りません。
8年前、私は70歳になり上智短大を去りました。上智短大が創立してから35年間、無我夢中で働いてきました。その頃。「シスター、上智短大から離れられますか?」とよく聞かれました。私には「できますよ。」という自信がありませんでした。ところが私にとって、「子離れ」するいい機会が与えられました。退職する前年の誕生日(10月)で、ちょうど2年生のゼミの授業があった日です。12時半に授業が終わると、さっと白板全体に、「お誕生日お目でとう。70才!」というスライドが映され、入口からは、1年生の人間学の学生が、70本のバラ、学生との写真入りの大きなケーキ、ピンクのショールなどのプレゼントを掲げて“Happy Birthday”の大合唱と共に入ってきました。学生は、私の誕生日を知らないと思っていた私は、その時、自分が次の3月に上智短大を退職することを悟りました。私たちは、バラの花束を掲げて、学長室と事務室を行進しました。多分、このような祝いをされたのは、私だけかもしれません。この“悟り”のおかげで、私は、翌年3月に、心から感謝して上智短期大学を退職しました。
私が退職してから、山本学長の時代になり、上智短大も上智大学短期大学部となりました。私は、聖マリア修道女会の管区長を経て、今は、千葉の聖母マリア幼稚園の園長をしています。古巣に帰りました。
講話の構成
今日、私に与えられたテーマは、「上智短期大学の40年を振り返って」ですので、英語教育についても触れなければならないと思いましたが、英語の専門ではありませんので、専門の先生方にお任せいたします。私の仕事柄、アジアの若者と接する機会が多いですが、彼らは、英語が良くできます。上智短大の創立の理念からみて、もっと上智短大の学生も、卒業生も英語力があっていいのではないかと思っています。
実は、与えられたテーマで何をお話しようかと、悩んでいた時に、ある卒業生から電話をもらいました。私が、そのことを話しますと、彼女は、「自分が上智短大に進学したから、自分の人生が拓けた。今の自分があるのは、上智短大のお陰。」と熱弁をふるって話し始めました。私は、彼女の話を聞いていて、彼女の話の方がずっとこのテーマに合っていて面白く、私と一緒に講演してほしいと頼みました。それからもう一人、「この集りを楽しみにしています。」と手紙を送ってきた彼女にも頼みました。
多分、私の授業をお聞きになった皆様は、思い出されると思いますが、私の授業は、「学生参加型」で、クラスの皆さんの意見を聞きながら進めていきました。私は、そのことを思い出し、このお二人に、ご自分が体験した「上智短大とその後の人生」を話して、頂くことで、上智短大の歴史を立体的に考えて頂きたいと思いました。上智短大の歴史は、皆様方が書き続けて下さっています。時間の配分が悪く、私の話が、上智短大のごく初期の頃で終わってしまいそうです。(原稿はもっと続きますが。)
私の準備期間
私が、上智短大で目指してきたことは、私の大学時代に源泉があるように思います。
私の大学時代は、60年安保闘争が盛んで、運動の拠点校だったため、大学時代は安保闘争に明け暮れました。シスターになってから、大学院で勉強しましたが、今度は、70年安保闘争とぶつかりました。私は、「60年・70年安保」の学生運動を経験した数少ない学生の一人だと思います。学生運動といってもその裏に政治、政党がありました。自治であるはずの学部自治会の裏には共産党や社会党があり、学生活動は、政治のいい道具になっていました。私は、自らそれを経験して、絶対に政治に左右される人生は送りたくない、と思いました。自分の将来を模索していた時に、イエス・キリストに出会い、彼に賭けようと決心しました。「良心に恥じない人生を送りたい。」との願いは、安保闘争から学んだ事です。私が、後で修道者の道を選んだ理由の一つに、この安保闘争があったと思います。
私は、大学4年生の春、洗礼を受け、翌年、東京のカトリック小学校の教員になりました。昼は働き、夜は、神学の勉強をしました。そして、上智大学の女子学生のための「Congregatio Mariana」という信心会に入れてもらい、毎週土曜日は、上智の女子学生と信仰の分かち合いをしました。この信心会は、イエズス会学校には必ず存在し、聖イグナチオの時代から、現代に至るまで、形式(現代はCLC)は変わりましたが続いています。私は、ここで上智大生の多様な生き方をみました。
Congregatio Mariana に所属した頃から、私は、聖イグナチオとイエズス会が大好きでした。教師の道も好きでした。色々と考え祈った結果、聖イグナチオの霊性を持つ聖マリア修道女会に入会しました。聖マリア修道女会は、1959年に来日したばかりでしたので、私は、最初の入会者(2人)のうちの1人となりました。この会は、全世界で学校教育に従事していましたので、日本でも学校を開く構想を持っていました。学校開設の準備のために、私は、大学院で日本の学校教育について研究することになりました。日本の教育事情を余り知らないスペイン人シスターが、私を東大教授に紹介し、研究生となり、その後、東大の大学院に合格しました。合格を知った宣教学専門の神父様から、「折角東大に入ったのだから、日本の社会で認められる研究をして欲しい」と言われ、テーマに「イエズス会の学校の研究」を選び、イエズス会が1599年にまとめた“Ratio Studiorum”(学習要領)の成立過程を修士論文にまとめました。その時は、自分が上智短大の教育に関わるとは考えもしませんでしたが、この勉強は、後の上智短大で非常に役に立ちました。大学院を終える頃に、聖マリア修道女会が、上智短期大学の設立に協力することになりました。イエズス会は、世界で初めて女子の短大を作ることになったそうで、私は、イエズス会が全世界で400年間にわたって培ってきた教育実践を、女子教育の中で展開してみたいと、この不思議な巡り合いに感謝しました。
ピタウ理事長と上智短大の構想
上智大学が、短期大学を作るきっかけは、当時の上智学院理事長のピタオ神父様と聖マリア会の地区長Sr.マリア・ドロレス・ラシェラスとの出会いにありました。当時、聖マリア修道女会は、千葉で短大を創る案を持ち、その可能性についてピタウ神父様に相談に行きました。その説明をお聞きになったピタウ神父様は「シスター、秦野で一緒に女子短大を作りましょう!」と言われました。びっくりした聖マリア修道女会側は、「秦野ではなく千葉で」と提案をしたそうですが、当時、上智大学は、秦野市と学校建設の約束があり、用地は秦野に決まっていました。
ピタウ理事長は、当時既に、上智短大創設の具体案の一つに考えておられたようです。
上智大学は、長い間、男子校でした。昭和30年の後半に共学にし、女子学生を受け入れると、非常に優秀な学生が英文科、英語科に集まってきたそうです。そのおかげで、急速に上智大学の知名度が上がり、「女東大」と評価されていると喜んでおられました。ピタウ理事長は、「この優秀な女子学生を全部受け入れないのは非常にもったいない。この人たちを上智短大で受け入れ、いい教育をしたらどうでしょうか!」と情熱的に話された日のことを私も、まだ心に残っています。
ピタウ理事長は、新しい構想を次のように話されました。
1) 新しい上智短期大学のモデルは、アメリカの“コミュニティー・カレッジ(CM)”です。CMでは2年間、徹底的に一般教養を勉強し、自分の専門を探します。高校の成績だけ、人生が決まってしまう現状の進路指導ではなく、その人に相応しい道を探すことができるような短大になってほしいです。
2) 上智大学の一つの大学として、キリスト教的ヒューマニズムの習得にも力を入れて欲しいです。
特に、これからの社会のリーダーとなる女性が、ヒューマニズムの根本理念を身に付け、社会に奉仕すれば、社会は変わっていくでしょう。
3) また、全ての基礎となる英語教育を、1年生で集中し、英語をマスターさせたいです。語学は、朝早くから徹底的に学ぶのがよいので、アメリカの大学では、朝7時に始めます。その為にも、全寮制にしたいです。
千葉に総合学園を作りたいと研究していた聖マリア修道女会のシスターたちは、ピタウ理事長の構想を全面的に賛成しました。そして、千葉で学校を創る案を白紙に戻すことにし、秦野での短大創設に協力することにしました。
聖ジャンヌ・ド・レストナックの教育観
聖マリア修道女会の創立者ジャンヌ・レストナック(1556‐1640)は、フランスのウマニストであったミシェル・ド・モンテーニュの姪でした。彼女は伯父から、当時の新しいヒューマニズムの教育を受けました。そして、宗教改革の中で、女性が社会の片隅に置かれている状況を見て、女性が自ら女性の教育に献身しなければ、社会の向上はないと、自ら女学校を在世中に30校を建てました。1605年に書いた手紙のなかで、「これからの時代は新しい方法で新しい教育をしなければならない。」とし、自らイエズス会の会憲やRatio Studiorumを学び、女学校に応用しました。現在、聖マリア修道女会は、27か国で、学校教育を展開しています。多くの国で、イエズス会と共同で学校教育に従事しています。
最後に
「40年を振り返って」のテーマを与えられましたが、創立準備期間で、このお話も時間がきてしまいました。創立時には、学生寮を含めて、10人近く上智短大のために働いた聖マリア修道女会のシスターも現在では、少なくなりました。最初の英語科長だった巽豊彦先生は、「シスターは、キャンパスの中にいるだけでいいです。学生は後姿を見て育ちます。」といつもおっしゃって下さいました。
開学当時の先生方から、現在に至るまで、懐かしい先生方、職員方のお顔が浮かんできました40年間を振り返られなかったことをお詫びして、時間になりましたので、私の話を終了させていただきます。
上智大学短期大学部ソフィア会ホームカミング
場所を12号館401教室に移して、和やかに先生方、卒業生との交流を行うことができました。
上智大学短期大学部永野良博学科長のご発生による乾杯のあと、第4代上智短期大学長を務められた上智学院高祖敏明理事長もお立ち寄りくださいました。
受付では、2つの募金を行いました。
1.「ジェラルド・バリー賞」への寄付 11,600円
2.大規模災害による被災学生支援寄付 12,300円
ご賛同、誠にありがとうござしました。
上記の趣旨につきましては、当会のホームページの「ジェラルド・バリー賞創設のご案内」と「大規模災害による被災学生支援寄付」をご覧ください。